夜空に十字架


十字架に帰ろう / 高石ともや (2016年)

これは、日記です。散らばったパズルのピースみたいな。今日は5月の快晴でした。

五月晴れとは梅雨の晴れ間に使う言葉だとさっき知った。知らないことは本当に知らない。みんなそうなんじゃないの?それにしても、緑が萌えると表現した昔の人たちを尊敬する。最初に夜空に星座を見出した人たちを。ロマンは大自然の中にあるんだね。

キリストのことを考えていた。ブッダのことはあんまり考えなかった。マザー・テレサは信心深く、慈悲の心をもって多くの人を救ったが、「それでも神はわたしをお許しにならない」と言ったそうだ。

高校生の頃にマルグリット・デュラスという作家の「これで、おしまい」という本を見つけた。見つけたものの読むことはなく、去年やっと購入して読んだ。この本は彼女の代表作というわけではない。自分の死期を悟った上で書かれた手記のようなもの。入り込むと、どこか遠くへ連れ去られてしまうような深さがある。その中に若い愛人に対して書かれたであろう言葉があり、最近ふと思い出す。

私の命の中に来て。(『これで、おしまい』)

これはなにも芸術的センスに恵まれた人だけが感じることではないと思う。混沌とした若い人にも老いを見つめる人にも、わかる言葉なんじゃないかな。いや、誰もが思うような気もする。孤独に対する究極の対処法。叶うことのない。どうかな?

仏教は自己と向き合い、精神を鍛え上げるようなイメージ。修行。キリスト教には常に他者がいて、祈り続けるイメージ。僕は祈る方に興味がある。誰かが寄り添ってくれるような時間。孤独は一方でセンスと言えるのではないか。誰にも見えない秘密のナイフを研ぐ作業。どうかな?

それからデビッド・ボウイの「ロックンロールの自殺者」を思い出した。大好きな歌。ボウイが他者に対して限界まで近づいて叫んでるような気がする。


宗教の祈りは「神が自分の中に入ってくること」かもしれない。どうかな?

それからそれからアンドロギュヌスの神話を思い出したりもした。女と男は一つの球体でだったという話。それでいくと僕は半身なくしたままの男だ。なるべくけろっと過ごしながら、夜は秘密のナイフを研いでいる。愛とか寄り添うとか、結局は理解そのものではなくて理解しようとすることだろうな。どうかな!

どれが正しいかなんてどうでもよくて、それがその人を本当の意味で助けるのならそれでいい