ヘヴン

 

きみが思うならそうだよ

きっとそうだよ

そこに間違いなんて

ないんだよ


僕は今も考えてる

ずっと考えて

わかったことなんて

大してないんだ


ヘヴンはいらない

ヘヴンはいらない

出来るならきみと

どっかへ行きたい


死んでなんかいないのに

きみと話すと僕は

生き返る気がするよ


雨が降っているときでも

雲の上には

晴れ渡る空があるんだね


ねえ、そこに座る神さまは

どんな顔して

僕たちのことを見てるかな


ヘヴンはいらない

ヘヴンはいらない

出来るだけきみと

一緒に生きたい


ヘヴンはいらない

そんなものいらない

出来るならきみと

一緒に生きたい


死んでなんかいないのに

きみと話すと僕は

生き返る気がするよ

雨が降っている。雨が降っているときは、雨が降っていると書きたい。むかし読んだ誰かの本の話では、簡単なことほど書くのが難しいものらしい。わかるようなわからないような、けど書いてみたらわかるかもしれないから、雨が降っているときは雨が降っていると書いてみる。だから、僕のノートにはたくさんの雨が降っている。本当は黙っていたいのだけど、さびしくて悲しくて情けなくて、僕はなにかを話していたくなる。僕が作ってきた歌は、同じ話を違う日に話しているだけなんじゃないか。友達が欲しかったくせに、一人の時間が満たされていた10数年前に比べて、僕のひとりぼっちは痩せこけて、力無いものになってしまった。知った分だけ脳は肥え、なにかを成していった分だけ筋肉がつく。身体と心のバランス。心と脳のバランス。魂の重さ、足取りの軽さ。いつも今がすべて。今はこの色味のないくすんだ悲しさがすべて。そこから見える世界のなんと仄暗いこと。わけのわからなさ。わからなくなる夜があるんだ。今でも。どこにいても落ち着かないときが。

 

そう、なにか書きたい。僕はなにか書きたいけど、それもわからない。わかろうとしてはいるけど、わからない。ちょっと疲れてしまったがゆえに、することぜんぶ、意味がないように思えてしまう。それでいて人に対しては冷静になって、励まそうとする。スジが通ってないんじゃないか。10数年先にいたのは。弱いまんまの僕ではないか。

 

すっかり参ってしまった。僕は誰なんだ。もうこれまでのようにはいかないだろう。暗い足場を蹴り上げて、最後の旅に出よう。雨が止んだ。

突き出した拳をゆっくり開き、その中にある空白を認める。霧は晴れたな。言葉も渋滞するし、帰れないまま死んだりする。いくつもの墓を眺めながら、沈黙に耐えきれずに歌は生まれたのだろう。歌が必要な人たちのために。ともかく、今夜はこの明瞭な頭脳を味わおう。月明かりで本が読めそう。いつか、1ページも書かずにしまいこんだ大学ノートが、白み始めた空のよう。朝は静かでいいよね。静かな夜も、またいいね。きみがもがけばもがくほど、僕は冷静でいられる。いや、冷静でなくてはダメなんだ。そして遥か彼方で情熱は、カーニバルの音を響かせながら焦燥をかき立てている。焚き火の火とは、違うみたい。アフリカの月を見てみたい。きみは気づかなかったことに罪の意識を感じてる。耳を傾けることなく、目を閉じようとしてる。むなしさだけが残り、何者も立ち去った跡に、むなしさだけが残り、何事もなかったかのように、むなしさだけが残る。けれども思ったよりかは体は軽く、夜の散歩はまだまだ続く。頭の中で自由にあれ、まともと袂を分かつため

長い間奏

生活のところどころでヘンリー・ダーガーのことを思い出す。部屋の掃除をしたり夕飯の支度をしたり、超現実的な風景の中で彼が創った超非現実的な風景に想いを寄せる。いや、その超非現実的な壮大な物語を紡ぐことに一生を費やし、誰に見せるでもなく死んでいった圧倒的なリアリティに惹かれているのかもしれない。僕は芸術が好きな割には生き方に芸術性がない。SFが好きな割にはちっぽけな出来事に頭を悩ませてる。長いこと学校に行かなかった割には

僕は僕には言葉がなくなった!どっかへ行ってしまった!僕は僕には音が聞こえなくなった。やっぱりどっかへ行ってしまった。

ダニエル・ジョンストンシド・バレットを聴きながら、そんな気がする。そんな気がする。ああ、また頭の中が燃え始める。だから事実を書こう。夏が来た。夏なんてあっという間。彼女の言う通りだと思う。人生は短い。先生の言う通りだと思う。海へ行こう。浦島太郎にならないように、夕方には帰って明日に備える。だらだらと汗をかきながら熱気の底をはぎしり燃えてゆききする、おれもひとりの修羅なのだ。いやいや、扉の向こうにいる誰かの"怒ってないよ"という言葉を聞いてからじゃないと出ていけない、子供みたいな、大人じゃないか。そんな気がする。そんな気がする。けどそれだけかな。それだけじゃないでしょう

もう6月だということにさっき気がついた。低気圧と高気圧にもまれながら、浅い眠りの中でいくつもの夢を見た。萌える草木の光を浴びて、誰も知らない涙をこぼした。その日のうちに掴めそうな感覚が、その日のうちに消えてった。ふるさとを指す一等星が、いつの間にか見えなくなった。氾濫した用水路で、輝く何かの破片を拾った。鬱血した黒雲が、深刻そうなわたしを見つけた。

see you laterさよならをした。今のうちだと誰かが言った。答える前にわたしは飛んだ。目を見て口にできるほど、たやすい言葉はわたしになかった

「あゝ、ボーヨー、ボーヨー」と晩年の中原中也はつぶやいていたそうだ。『前途茫洋』とは前途有望の反対語で、この言葉が彼の造語であるということはつい最近知った。中学生の頃、父親の本棚から抜き取った詩集の中に見つけた彼の写真は、弱々しくて悲しそうだった。


この間帰省した際に父から聞いた話では、なんでも近所の家の蔵には中原中也から届いたハガキが眠っているとのことだった。その家の主人のお祖父さんの弟に宛てられたものだが、主人は文学に無関心な為確認しておらず、現存してるのかどうかもわからないらしい。もし残ってるとしたら、それはどんな内容なのだろう?まあなんてことないものかも。あれこれ父と話をした。それでも中原中也の生き残った文字として、ガラスの向こうに保存されるんだろう。亡くなった人の手紙や持ち物が、亡くなってからも残ることが時々不思議に思える。ゴッホの絵なんか世界中を旅をして、とんでもない大金で競り落とされて、当の本人はオーヴェルの土の下か、宇宙の塵か。

いまここに存在することは奇跡なのか。緊張感のない生活の中でまさしく前途茫洋している。1人の部屋は時間が止まっているようで、ちゃんと日が暮れて暗くなる。テレビに映る戦争に憤りを感じながらも、憂鬱にかまけて平和ボケしているのはどいつだろう。つい忘れてしまう。暗くなるのは容易い。自分を責めることも容易い。ついつい忘れてしまう。そのマイナス感情の渦から逃れることは容易ではない。縮こまった思考はまるで乾麺みたい。湯を沸かせばいいのに。忘れてしまう。

自分がまったくなにも出来ないような気がしてしまう。思いつくことになんの意味もないと。感情に支配される。ただの悪い癖だろ。大袈裟な。おまえは狂わない怠け者。やさしさも思いやりも自分の中から消えてって、友達※繰り返し

 

暗雲垂れ込める空に向かって鳴き声を上げる1匹の羊がいて、そばには仲間も羊飼いもいない。うるさい犬も。羊は、いつの間にか自分が柵から出ていることに気づく。そして自分がどこからやって来たのかを思い出そうとする。鬱蒼とした森の中から得体の知れない生き物が目を光らせている。雲はだんだん近づいてくる。ふわふわとした自分の体毛の温もりの中で、羊は思い出そうとしている