ナイフを捨てたのに



じっとしてるのが辛かった。夕暮れ、太陽から逃れるようにして海へ向かった。浜辺では子供たちが花火をしていた。海上には大きな客船が停泊していた。波は猛々しく打ち寄せ、なんだか怒られているみたいだった。車に積みっぱなしだったギターを持ち出してきて弾いてみた。ラジオを聴いているような気持ちになった。弾いているのはたしかに僕なのだけど、僕はここにいないようだった。それはこの世で一番悲しい不在だった。ついに誰もわかってはくれなかったのだ。そう思うともう海の生臭さなど気にはならなかった。いずれは海に帰ることをわかっていたから。子供たちはいつの間にか帰っていた。空と海の境目はなくなってしまった。僕は飛ぶことも沈むことも出来ずに浮かんでいた。この街の灯りに思い入れは無い。灯りが消えたままの街灯に同情すら覚える。僕も昔はそうだったなんて誰にも言いたくない。夏の約束は何もしないでおこう。ピンボールのように行き当たりばったりでいい。しかしあの子には心底大丈夫と伝えたい。勝手なことだ。今なら暗闇の静けさがわかる。目を閉じなくても満ち溢れている。

山間を走る夜の電車は少ない灯りを集めて逃げていく。いよいよ言葉が無くなった。人気のない路傍で夢は腰を下ろした。大事なものはとても重い。その重さに支えられてきたはずなのに、どうでもよくなってくるこの感情が憎たらしい。僕はナイフを捨てたのに、あの赤いアドバルーンに手が届かない。僕の日記はそこで終わった。

朝から降る雨は夜には止むものだと思っていた。毎晩モヤモヤした心の内を書きだそうと試みるが、僕には言葉がない。閉め忘れた蛇口の前で空のコップを持って突っ立っている。話しかける相手もいない。それは僕もいないような気がする。少々疲れてしまった。日記でもかっこつけてどうする。結構疲れている。ホッと出来る時間が一瞬たりともない。僕はここにいるのだろうか。今のこの気持ちがすべてになる。世界のなにものとも繋がっていないような気持ち。立ち込める霧の中に消えていきたい。頑張ったところもある。頑張れなかったこともある。誰にもわかってもらえない夢の中。覚めることがあるのだろうか。あんまりもう言うことがない。

「悩みはイバラのように降り注ぐ」ある限られた時間の中で少年が言った。僕は彼に憧れを持っていた。

七に二をたしゃ九になるが


dip - 13 Kaidan Heno Kouya

13階段への荒野を抜けて
独裁者の野心を撃ちおとせ
破裂した心臓に魅かれても

僕を走らせるのは
スピードなんかじゃなくて
痛みだけが新しい世界を映しだすだろう
待つように遅れたい

13階段への荒野」dip

 


SCANCH "13階の女"

彼女にはもうこうするしかないのだ
13階の屋上から身を投げること

いつもだまされ続けた 彼女は運が悪い
良い人だと思っても やっぱりみんな同じ

彼女にはもうこうするしかないのだ
13階の屋上から身を投げること

「13階の女」安全バンド

 

13は、西洋において最も忌避される忌み数である。
「13恐怖症」を、ギリシャ語からtriskaidekaphobia(tris「3」kai「&」deka「10」phobia「恐怖症」)という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/13_(%E5%BF%8C%E3%81%BF%E6%95%B0)

 

初めて一人暮らししたアパートが13階段だった。
引っ越した初日、部屋の中で黒人の男に殴り殺される夢を見た。
ただそれだけ。

僕が怖いのは4くらい。
だから4なないように足したり引いたりする。
ただそれだけ。

球婚

一日もはやく私は結婚したいのです

結婚さえすれば

私は人一倍生きていたくなるでしょう

「求婚の広告」山之口獏


まるでティーンエイジャーのように恋に恋する日々の中。あわただしく過ぎる日々の泡。僕が一番欲しいものは僕から一番遠いところにある。一番高い塔から何が見える。だいなしの青春のその後はどうなる。知ったかぶりして知らんぷりして時々横目で誰かを見てる。話しかければいいのにな。

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大昔、男と女は球体のような一つの身体で暮らしていた。だが全能なるゼウスによって半分に断ち切られてしまった。そうして男と女は離れ離れ、お互いを求めるようになったという。アンドロギュヌスの神話。映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」にも登場する。ひとりぼっちは半身なのだ。もともと一つ。


The Kinks - Strangers (Official Audio)

Strangers on this road we are on
同じ道を歩く他人同士
We are not two we are one
僕たちは二つではなく一つだ

 
都合良いものならまだいい。夜の間ずっと月に手を伸ばしている。疲れたのなら眠りにつく。ちっとも安心出来なくて、初めて知った祈りがある。果てるのをただ待っているだけでは今さえ朽ちて消えそうな、僕は半身失くした男。

fool on the 夜


Mitski - My Body's Made of Crushed Little Stars

毎晩お酒を飲む生活になってきた。そのくせアルコールには弱いので少量でべろべろになる。一人でいるとどうしていいかわからなくなる。その混乱が頻繁に訪れるようになった。捨ててもすぐに溜まる水。その水が差しだされた以上飲まなきゃいけない。暗闇が自分の体の形ぴったりにまで迫ってくるような気持ちになる。

昨夜、SNSに「死のう」と書き込んでしまった。実際は部屋の小窓を見つめながら泣いていたら寝てしまっていただけだった。朝になってその投稿は消した。一部の方々に心配させてしまった。その一言でも馬鹿なことをしたと思う。そもそも「死にたい」という言葉が僕の中にはほとんど登場しないので不思議に思った。思っても言わないし、別の言葉に言い換えたりする。それが昨夜はためらいもなく出てしまった。大げさに考えるつもりはないけど、自分の一つの変化に感じる。誰にも理解されていないという実感と、誰かに理解して欲しいという願いがかなり強くなっている。

「馬鹿は死んでもなおらない」と言うけれど、死んでも見てくれる人がいるということなのか。そんな考えこそ馬鹿じゃないか。

今までと今の様々な歯車が一致した気がする。近々自主的に教会へ行ってみようと思っている。生きるため。

以下、今日書いた歌詞

僕をみている僕がみてる
僕をみている僕をみてる
僕をみている誰かがいる
黒洞々たる夜がある

涙を流す僕を見てる
涙を流し僕が見てる
涙を流す誰かがいる
彼(か)のやさしさの光が増す

祈り ひとり 救いを求めたり

祈り そばに 命の中に来て欲しい

三十手前に詠むエピタフ


moonriders - DON'T TRUST ANYONE OVER 30

昨日の夜 ちょっとしたバーで
彼女に言った
ぼくはいなくなるよ
そして冬は 瞳に流れた
「DON'T TRUST ANYONE OVER 30」

十代の頃、テレビで大家族の番組を見ていた。その家族の中に非行気味の高校生の男の子がいて、父親に「おまえは将来どうするんだ」と聞かれ「おれは二十歳までに死ぬからいいんだ」と答えていた。そのシーンがとても印象に残っていて時々思い出すことがある。

十代でデビューした尾崎豊。彼が20歳になったとき、これから何を歌えばいいのか悩んでいたという。そんな中、ある素晴らしいメロディーが頭の中に降りてきた。録音も済み、残すは歌詞と歌入れのみという状況に。締切ギリギリになってスタジオに帰ってきた尾崎はちゃんと新しい歌詞を持ってきた。そうして完成した曲が「FORGET-ME-NOT」だった。尾崎は26歳で亡くなった。「自分は三十代まで生きられないと思う」と周囲の人に漏らしていたという。

T.REXマーク・ボランの伝説にこんなものがある。彼は若い頃に魔術師にこう言われたそうだ。「あなたは若くして大成功を収めるが、三十歳までに血まみれになって死ぬだろう」そしてその通りになった。彼は三十歳の誕生日を迎える二週間前に自動車事故で亡くなってしまった。

「人の本当の仕事は三十歳になってから始まる」
  ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ

自分が三十歳になった姿を想像してみる。想像つかない。来週さえも!だから誰かと約束をすることにとても億劫になってしまう。しかしそれは卑怯だと思う。頭の中で考えているとき、やっぱりここに誰かいてほしいと思う。僕はいつの間にか無口な寂しがり屋になってしまったのではないか。

若い頃は死に憧れる人も多いだろう。そうすることで特別な存在になれると思うのかもしれない。冗談半分、半分本気で遺書を書いてみたりして。忘れた頃に引き出しから見つけて恥ずかしくなったり。それならイニシエーション。だがほんの一握りの、神に選ばれたような人たちにチラつく死にはゾッとしてしまう。彼らは輝かしい光を見ているのだが、彼らの後ろには恐ろしいほど深い暗闇が見える。

いつかは誰しも死ぬけれど、それが人間同士の生き物同士の大事な共通点であるようにいつからか思うようになった。そういうものだ。おじいさんもそう言うだろう。

人間は区切りたがり。節目というものが大事らしい。人にも時代にも年齢がある。その数字の中からラッキーを見つけたいのだろう。きっかけはきっかけに過ぎないが、きっかけがないことには始まらないことが多くある。それなら都合良く生きた方がいいかも。自分に悩むくらいなら友達がいなくなる覚悟で…

夭折した芸術家たちから聞こえてくる音楽はブルースかなと思う(それか讃美歌!)見えてくる景色は都会ではなく田舎。そこに佇む影のような寂しさ。学生時代に背伸びして読んだリルケの詩に「大都会は真実ではない」とあったのを思い出す。真実を求め続けるには力が要る。うまい具合に力を抜ける人の方が長生きしてる気がする。幸か不幸か。空気がある。言葉がある。僕らには。

ほらkeeps memories


The Rolling Stones - Fool To Cry - OFFICIAL PROMO

「ああ、あんた、
あんた馬鹿よ。泣くなんて。
馬鹿者だけよ、泣くのは。
なんで泣くの、不思議だわ」
http://neverendingmusic.blog.jp/archives/9078636.html

 雨が降ると泣きたくなる。時には泣いている。雨は内へ内へと眼差しを向けさせる。家へ家へ。僕は想い出に泣かされてるわけではなく、想い出に泣いてるんだろうなと思う。記憶の園に自ら赴いてそこで涙を流している。もちろん誰もいない。そうやって想い出の鮮度を保ちたいのだろう。愚か者よと誰かは言うか。まあそんなことを今までネガティヴに捉えていたのだけど、そうでもないような気もしてきた。僕には一人の時間が必要で、大切なものだと知った。センチメンタルがブルーだとしたら、もっと透明なものを見つけたい。透明だけど形あるものを。本当はギターもペンもいらない気がする。

洗濯物を干すときより洗濯機の回る音を聞いているときの方が気持ちがいい。洗濯物を干すのはめんどうだけど、そんな生活の中の一つの動作をゆっくりこなせるようになりたいなとも思う。自然体とはなにかなと最近よく考える。僕のことをいつも僕が見ている。それよりも綺麗な景色が見たい。綺麗な人を見たい。言葉に介入されない時間が欲しい。

「また明日」の瞬間にフェイドアウトしていく。と同時にフェイドインしていく。時々暗闇というのが誰かが大きく開けた口の中に思える。そうして誰かが罠にかかるのを待っているような。「神様」と「神様みたいな存在」はちょっと違う。

日々考えていることがたくさんある。流れていくこともたくさんある。嬉しい出来事があった日は時間の流れに傷をつけることが出来た気がする。日付の横に自分の名前を刻めた気がする。考えるべきことというのは実はあんまりないように思う。やるべきことはやっていくのみ。

ところで毎晩一人でご飯を食べているのがなかなか寂しい。犬に会いたい。