僕がよぼよぼのじいさんになったならば(風景)

86歳になる祖父が体調を崩したため入院した。昨日、父とお見舞いに行った。
祖父はベッドに横たわり、以前より目が虚ろに見えた。
認知症の症状も表れ始めてはいるが、意識はハッキリとしているように思う。
入院とはいえ、86歳にもなるのだ。体調を崩さない方が不思議なことかもしれない。
家族として、祖父が長生きしてくれていることをありがたく思う。

静かな病室で祖父を見ていると「おじいさんになるってどんな感じ?」と尋ねたくなる。
決して尋ねることはないのだけど、そんな子供じみた疑問が自然と頭に浮かんでくる。
いつか僕もおじいさんになるのだろうか。ふと、古いこんな歌を思い出した。


ザ・ディランⅡ 風景


「風景」作詞作曲:中塚正人(センチメンタル・シティ・ロマンス)

僕がよぼよぼのじいさんになったならば
僕は君を連れ この街を出るんだ

きっと待ってるさ 故郷の山や河が
生まれ育ったあの土のにおい

僕たちの行くところ 僕たちの住むところ
故郷のあの丘さ あの雲の下さ

僕がよぼよぼのじいさんになったならば
僕は君を連れ この街を出るんだ

 
センチメンタル・シティ・ロマンスというバンドが70年代に発表した曲「風景」
前回の記事でも紹介した、ザ・ディランⅡのカバーバージョン。
アレンジも素晴らしく、大塚まさじさんのやさしい歌声がハマっていて好きだ。

祖父は長い間この街で暮らしてきた。山の中にある、今僕がいるこの家で暮らしてきた。
今年の春から入院したり、市内の介護施設に入ったりで我が家には一度も帰っていない。
ただ、お見舞いに行くと「家に帰りたい」と口にするのをよく聞く。
家は、故郷はこんなにも近くにもあるのに、家族として帰してあげられないことがもどかしくもある。
祖父の気持ちを想う中で、僕はこの「風景」という曲を思い出したのだった。

そして、僕がよぼよぼのじいさんになったならば。あまりに遠い未来に感じる。
25歳では想像も出来なければ、こうなっていたいという願望も特に思い浮かばない。
生まれ育った家がある村も、今や住人の殆どがお年寄りだ。
おじいさんになったとき、もう村には人がいないかもしれない。
村自体が無くなっているかもしれない。寂しいけど、そんな現実的な予想は出来る。
その時、僕はなにをしているだろう?それまでに、何をしてきているだろう。
もし生まれ育った家におじいさんの僕がいるなら、田んぼに菜の花をいっぱいに植えたいかな。
同じ「風景」というタイトルに、こんな歌(詩)もある。


山平和彦 / 風景

「風景 純銀もざいく山村暮鳥

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな