行方知れずのピリオドたち

 

日記。僕の日記は夕暮れから始まる。たくさん雨が降った。溢れ返るほどの恵みも考えものだ。実家の裏山では土砂崩れが起きたことがなかったことを思い出した。山の頂上付近はあえて植林せず、雑木林のままになっている。雑木が落とす葉っぱがスポンジのような役目を果たすことで、雨によって生じる地盤の緩みを防げるからだ。それは自然と共に暮らした曽祖父の知恵だった。僕はそのことを父から教わった。曽祖父の代では木はお金に変わるものだったが、今はそうじゃなくなった。日本の木は誰にも邪魔されないまま静かに茂り、代わりにというようにどこか遠い国の木々がドミノのようにバタバタと薙ぎ倒されている。山で聞く雨の音が好きだった。今でも好きだ。自分という存在が、とてつもなく大きな獣についた一匹のノミのようにちっぽけなものに思えた。そのちっぽけさは心地よかった。生まれた土地と、そこで生きてきた人たちに育ててもらってきたことを年々実感することが多くなった。これからどんな風に生きていったとしても、生まれ育った場所に繋がるように生きたいと心のどこかで決めている。

海を眺めているのも心地がいい。昨日、初めて江ノ島へ行った。山間の景色と違って海は遥か先まで見渡せるので、広々とした晴れやかな気持ちになる。小雨の降る中、江ノ島神社に行ったり水族館に行った。水族館や動物園に行くと、ガラス越しにテレパシーを送る遊びを毎回やっている。もちろん返事が返ってきたことはない。子供の頃からドクター・ドリトルがうらやましかった。一度でいいので自然界の声を聞いてみたい。帰り道、波打ち際に溜まったゴミを見て自分の中に傲慢さを感じた。もっとシンプルになりたい。

時には、はっきりと死が確認されないまま消えていった人たちのことを思い浮かべる。源義経サン=テグジュペリなんかのことを。ついついロマンチックな方向に想像してしまいがちだけど、結局のところ自分の死の本能を強くしているような気持ちになるので中断する。

生きている間にたくさんのピリオドに出会う。自ら打たねばならないときがある。自分で始めたことは、自分で終わらせなきゃいけないと教わった。ごまかしたり先延ばしたりすると、ちゃんと現象になって返ってくる。自分のあらゆる感情を素直に受け止めたい。そしてそれらの根拠をわかっておきたい。困りたくないから

もう少しご機嫌に暮らそう。当分帰らないつもりです