ブルーにこんがらがってる場合じゃない

退屈過ぎてあくびが出る、どころか涙が出そうだった。変わり続ける風景から新しいものを見出せず「おんなじ」と名付けて繰り返しているのは僕だった。昨日読んだメーテルリンクの『青い鳥』を思い出しながら、流れる雲を追っていた。思い出だけでやり繰り出来るなら、これでいいと現状に納得しているはずで、僕は退屈にも絶望にもうんざりしてる。面白くなくなるほど時計を気にし始める。まあ、それでも、不幸ではないけど、幸せとは言えないけど、いつも見ている風景の遠くに、今まで見えてこなかったものがぼんやりと見えてきた。僕自身がこの鳥かごの中から飛び出さなきゃならない。この金の鳥かごの中から。それが僕にとって青い鳥を見つけることと同義であることのように思われる。

雪の積もった田舎道を見ていると、相原求一朗という画家の絵を思い出した。冬の夜の北海道の、どこか田舎の風景。とてもさびしげな絵だけど、僕はその絵を部屋に飾りたいと思った。そうしたら僕のさびしさはそれで充分になる気がした。いつの日か実物を見てみたい。画像で見る絵と生で見る絵は全然違う。数年前、美術館でゴッホゴーギャンの絵を前にして、そう気づいた。絵具から筆が見え、筆から手先、画家の全身が現れるような。その人は涙を流してたり、キャンバスより遠くを見ていたりする。その人が見えてくるような気がする。歌もそうかもしれない。作品に感動すると、作者のことを知らないのに、作者のことを知ってる気になる。

良いことってなかなか起こらないものだ。僕はこんなにも良いことを待っているのに。コンビニや駅の前でたむろする若者たちも、何か良いことを待ってるのかもしれない。そう思いながら彼らを通り過ぎる時、心がほんのり温かくなる。嫌な思い出は楽しい思い出のためにあると教えてくれた人がいた。人はどうしても楽しいことより嫌なことの方が記憶に残り、思い出しやすいらしい。まったくどうしてそうなんだろうと思いつつ、それほど重要なことでもないなと思う。僕はひとりぼっちじゃないからだ。



Bluebird (Remastered 2010)

「幸せにするよ」偉そうだなあ。「幸せを見つけよう」違うなあ。
「幸せになろう」これにしよう。それがいい。