身体いっぱい泣いてみたい

年末より年が明けて三が日が終わったあたりがさびしい。よく笑い合ったもんだ。ありがとう。祭りのあとのさびしさ。贅沢なもんだ。しかし、時間が過ぎていくことをさびしいと思うことこそ老いの象徴みたいな気がするので、やめておきたい。それは友達に教わったことのひとつでもある。新しい年も1週間も過ぎれば平常運転になる。僕は隙をみて腰掛けようとするけれど、またすぐに次の列車がやってくる。必ずしもその時刻に乗らなければいけないなんてことはないのだけれど、線路の先にある風景を、僕は信じているものだから、石だろうが爆弾だろうが、おかまいなしに走り続ける。やっぱり、時間はたくさんはないのだと思う。トンネルを抜けた後の光はよりまぶしく感じる。トンネルに入ったばかりの闇は、より深い。街灯の下で両手を挙げて、もう降参だというような夜。余計にくたびれた頭脳がひとりぼっちを認識してロックする。何光年も離れた星に、この敗戦の記録を送ってやりたい。届いた頃には、とっくに塵の僕だから、地球の砂漠の吹き溜まりから、返事を待ち続けるだろう。生きてた頃とおんなじように。僕は、僕がいなくなった後でみんなが気づいてくれると思ってやいやしないか?なんだか既視感のある言葉。寒さも空腹も正直だ。どちらも身体に忠実だ。そっちに従っていれば良い。もう帰ろう。触れれば?触れれば!触れさえすれば。僕の温かさがわかると思う。水たまりの中に、昨日の卑しい僕が見える。

いつのまにかきみに手紙を書いている。一行書いては折り畳む。たったそれだけの仕事です。それでも少しずつ進んでます。きみは僕を歌う犬だと言うが、僕は自分を猿だと思う。きみの友達の猿。秘密を投げ合って遊んでる。"ヤツら"人間にはわかるまいよ。

泣きたい瞬間があった。泣いてきた瞬間があった。そこには家族がいたり、友達や恋人がいたり、お互いをなんにもしらない僕らがいたりした。泣いていたのが僕だけでないこともあったし、泣きたかったのは僕だけじゃなかったこともあっただろう。僕はいつも可能性をほんの少しでも残して、その場にいる僕らを救いたいと思っていたが、それは正しくは僕を、だったのではないかと今は思う。

夕暮れを眺めながら朝陽を思う。夜になったら朝陽を待ってる。朝陽が昇る頃にはまだ寝てる。

 

今年はどうだった?と、365個のイルミネーションが問いかけてくる。僕は、なかなかよかったよと言いながら背を向けて、暗い路地を歩いていく。辿り着いた家の窓には、すでに灯りが点っている。それがこの1年の内に僕が見つけた光だということを、もうずいぶん長い間会ってない友達に再会することがあれば伝えたいと思うのだが、そんな機会があるのかわからない。僕はずいぶん勝手だったし、僕たちは必然的に変わっていく生き物だし。こうやって文章に書き出すと、変わっていくということはなんともさびしそうに見えるものだが、実のところ、僕はそんなにさびしくないのだよ、ワトスンくん。近頃、自分の子供時代を思い出していて気が付いたのだが、どれもさびしい思い出ばかりでね。それを思えば、大したことはないね。本当のところ、わかりあえないということは、それほどさびしいものじゃないのかもしれない、とさえ思っている。きみは、その人と結婚するのか?秘密を打ち明けた相手を親友と呼ぶのか。嘘に罪を感じたまま、贖うようにやさしくするのか。かまうものか。外に出なよ。五感を使って、言葉はいらない。たまには1人で風に吹かれて、ぼーっとするのもいいよ。

今年の始めに見た夢の中身を、今でもよーく覚えてる。そのとき僕は大きな分岐点にきていた。僕の夢はわかりやすい。暗いが、わかりやすいので笑えてくる。僕は夜の海の中にいた。浜辺では少年たちがBMXの練習をしていて、そのずっと奥には住宅街があり、家々は緑と黄色の温かな光を放っていた。僕は、そこに行きたかった。もうずっと前からそう思っていた。夢の景色は絵に描いた。未来でこの絵をまた見るだろう。僕は良い道を選んだ。道はこれまでずっと続いているものだけれど。

 

最近、身体の調子がよろしくない。風邪のようで、そうでない。年々冬が苦手になる。10代の頃は冬が好きだった。あの頃の僕の気持ちはほんとにひとりだった。そして、ひとりの時間を有意義に使うことが出来ていた。連休中、とにかく眠った。夜中にどしゃ降りの雨が降った。大きな雷が鳴った。地震が起きた。その時々に目が覚めて、まるでぜんぶが夢のように思えた。朝目が覚めたとき、頭の中に突拍子もないイメージがぼんやりと思い浮かんだ。平安時代とかそのあたり、戦から生き延びた行き場のない武士が、重い甲冑を脱ぎ捨て夜空を眺めてるというものだった。武士にセップクなんてする気はなかったが、生きてる間にいい友達に巡り会えなかったな、となんとなく諦めていた。夢が頭の中を散らかして、僕でないもので僕の形を作ってみせる。僕はわかってると言いながら、その日もなにもしなかった。そう思った。

通勤電車で本を読むことにした。買ったまま読まずに放置していた本を本棚から引っ張り出す。熟した果物をもぎ取る感じと似ていた。『最後のユニコーン』という小説は、僕にはなかなかとっつきにくい文章ではあるが、不思議な静けさが落ち着く。本屋で枕草子の現代語訳を立ち読みしながら、いま一番行きたい場所を思い描いた。静かな静かな美しいところ。

こうあるべきだなんて話からは逃げることにした。テキトーに相槌打って。僕はがらくたの中から宝物を見つけるのが好きらしかった。そのために手が汚れたり、重いものを動かすことを、僕はそれほど気にしていない。

ギターをまったく弾いてない。自分の作るものが虚しくて、すぐに白けてしまう。内に向くほど、いろんな声がうるさくなり、そのどれもが自分自身の発したものだということにウンザリする。自己愛の一人芝居。魂のふぬけ。集中力が、ないんだな。

このエリオット・スミスの未発表のインストがとてもいい。いいなあ。

仲間たちの輪から離れ、帰路につくとき、暗闇の中にちょうど1人分の空白を見つける。それが光であった試しはないのだけれど、僕はすっかりそこに落ち着く。暗闇は安物のスポンジのように荒いが、やわらかい。チープというのは簡単に替えがきくから安心する。そういえばさっき、仲間たち、ひとりひとりの笑う顔に気づいた途端、なんだか白けてしまい、さざ波の白いとこみたいに、なんだかどうでもよくなってしまって、時計のことを思い出したことを思い出した。校舎にかけてあるような、ただ時間わかるだけの時計。どうやら僕は、僕を忘れることが出来ないらしい。水に落ちたナルキッソスが、波紋に揺れながら浮かび上がる。僕はあわててバシャバシャやるが、悲しいかな、この惑星の重力には敵わない。それは鳥も蝶も蝙蝠も同じことで、お腹の中にいる時から知っていた。あ、いつのまにやら帰り道が沼のようにドロドロ、と、している。僕に馬の友達はいない。無闇やたらに悲しみを考えたりもしないつもりだ。沼の正体は悲しみだろう。しかし、駅までの道のりは果てしなく、悲しみが付け入る隙は十二分に存在する。僕に馬の友達がいればなあ。泥が映えるような、真っ白い立て髪のやつが。そしたらそいつをここへ置き去りにして、二度とここを訪れないための理由にしてやるのに。

自由に飛べると知っていたはずなのに僕達にはなんで飛べない時期があったのかなあ

今朝はずいぶん不機嫌なまま見送ってしまい、そのことを夕方まで気にしていた。僕に残された時間はあと夜しかない。だから部屋を明るく満たすことにした。自分の夢の中ですら、いじめられることだってある。ゆるやかに自走するおもちゃの車に指を軽く押し当てながら、行く先を決めていくようなイメージだ。いまいるその場所が自分ごと見えたのなら、もうきみは次のシーンにいる。

いつの間にか鳥のことを考えていた。ビートルズのフリー・アズ・ア・バードを聴いていたからだろうか。ジョンの死後、彼の未発表曲にポール、ジョージ、リンゴの3人が手を加えてビートルズとして発表した曲。この曲には好きなエピソードがあって、僕はしょっちゅう思い出す。それはレコーディング時にメンバーの家の庭で3人が記念撮影したときのこと。シャッターを切る瞬間、どこからか白いクジャクが現れ、メンバーと一緒に写真に写り込んだというものだ。ポールはそのクジャクをジョンだと思った。ポールがそう言うなら、それはそうなんだろう。かつて祖母は幼い頃、ニホンオオカミの鳴き声を聞いたことがあると話していた。祖母が鳴き声を聞いた年は、ニホンオオカミが最後に発見されてからずいぶんと経っていた。けど、鳴き声の主はニホンオオカミだったんだろう。それはそうなんだろう。僕はこの気持ちをこれ以上いじくり回さずに飾っておきたい。

 

自由な鳥の記憶I

台風が去った後、森の入り口で巣から落ちたと思われる2羽のメジロの雛を拾ったことがある。どちらもだいぶ弱っていた。1羽はすぐに死んでしまった。もう1羽の方は与えたエサもたいらげて、小さい鳴き声を上げながら駆け回り、すっかり回復したかのように思われた。けれども突然死んでしまった。僕には見えないか細い糸が、知らない間にほつれていたのだ。僕は不思議で不思議で仕方がなかった。

自由な鳥の記憶II

小学校にあった烏骨鶏の鶏舎の中に、1羽だけキジが紛れ込んでいた。なぜだか理由は知らなかった。キジはいつの間にかそこで飼育されていた。たった1羽のキジは鶏舎の中をせわしく動き回り、他の烏骨鶏たちをよくつついていた。ある日、大々的に鶏舎の中を掃除することになり、鳥たちぜんぶを外に出すことがあった。キジは一瞬の隙を逃さなかった。囲いを蹴り、捕まえようとする手をすり抜け、翼を広げ、校庭の端から端まで飛んで行き、山の中へと消えていった。僕は「よくやった!」と感心した。

自由な鳥の記憶III

一度、電信柱の上にとまったミミズクを見たことがある。野生のフクロウはまだ見たことがない。でもたぶん、フクロウに耳があるようなのがミミズクだから、ミミズクの耳がないようなのがフクロウなんだろう。

自由な鳥の記憶Ⅳ

猛禽類というのはあまり好きじゃない。彼らがどこを見ているのか、何を考えているのか、検討もつかない。家の庭に池があった頃、池に水があり何匹もの鯉が泳いでいた頃、池にかかった石橋の上にアオサギが立っていたことがあった。アオサギはこちらに気づいてすぐに飛び去った。鯉たちは無事だったが、サギは鯉を丸飲みするつもりだったのだろう。

 

僕は長い間、母方の祖母が生まれた土地と、僕が生まれた土地をつなぐニホンオオカミという存在に思いを馳せていた。いや、それが自分のルーツだという風に思い込んでいたのだ。自分の血の中に原始的な要素を見出したかった。特別な風に。また、自らをヘロン(鷺)などと名乗り、歌を歌うようになっていた。しかし、所詮僕は野鼠なのだ。臆病に逃げ回る野鼠の方がしっくりくる。クチバシもキバも持ってない。それでも、自分より小さな生き物を捕食しながら生きている。たまに僕を食べる生き物の前に、この身を差し出したくなる。クチバシやキバを、どこかに運んでくれるクレーンのように錯覚する。

 

あっという間に日が暮れた。いつも暗くなる前に明かりを点けるように心がけている。僕が他人に教えられることは、それくらいしかない。帰ってくるまでにご飯を作ろう。彼女にとって今日の僕は不機嫌なままだ。1日の中で何度も生まれ変わる。朝決心したことが、夜には理解出来なくなっていることだってある。それはおかしなことだろうか?わけもわからず泣き出す人を笑えるやつが、本当にいるのか。そんなやつらは言葉の中で自由になった気でいるだけだ。仮定の中で気取ってきただけだ。僕には平和な心地が必要だ。そのためにとりとめのない会話が必要だ。1人なら遠くへ行けるかもしれないけど、どこまで行っても渇いたままだろう。寒くなって、気がついたことがある。

寄せる波に寄せて

いつもは雨が好きだけど、昨夜の雨はあんまりだった。このびしょ濡れになった身体を連れて帰らないといけないのかと、面倒になった。時折、人間ぜんぶにウンザリする。ざっくばらんなディストピアを描いては、そこに存在する自分に対しての都合の良さに気付き、想像することを中断する。全身真っ黒の人間ではない動物になって、海を目指して四つ足で駆けて行きたくなる。どこかに仲間がいると信じながら。

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そういえば嫌な夢を見た。暗いトイレの個室の中で、汚れた便器を必死に磨いてた。汚れは落ちず、僕はまあこれでいいだろうと妥協したのだった。嫌な夢を見るともう一度寝るのが嫌になる。それでも疲れていたので、また眠りについた。僕が疲れているときは、人と話すことを忘れているだけのように思う。ぼんやりとした頭で『ハウルの動く城』に出てくる幼少期のハウルが過ごした場所へ行きたいと思った。毛の長い動物に生まれ変わったら、一匹でも平気で寝れるのだろうか。

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久しぶりに本屋へ行った。来年の手帳がたくさん並んでいた。僕は手帳を使い切ったことがない。それは、手帳が入るサイズのカバンを持ち歩かないからかもしれない。もらった図書カードでアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』を買おうと思ったが、読んだらなんだか白けてしまいそうな気がしたので、やめた。代わりに『辻征夫詩集』を取り寄せてもらった。本を受け取りに行くという行為は、昔からわくわくする。中園孔ニの絵が表紙に使われている文庫本を見つけた。ゴッホの絵が使われたグッズがいくつもあった。ゴッホの絵は、もはやフリー素材のように扱われている。馬場のぼるの『11ぴきのねこ』もあった。僕は美しいものと、病んでいるが美しいものと、のんきなものを求めている。そんな3つの頭を持つ動物が、心の裡で鎖に繋がれて餌を待っている。

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「君を自由にしてあげよう」「どんな季節の中にいても、自分の星座の位置がわかるように」「僕はどうしてこうなったのだろう」「なぜそうなっているかがわからない」「きれいなものが見たいだけ」「出来れば仲良くしたいだけ」頭の中ではおしゃべりが続く。雨は僕にとって消音機能の役割がある。退屈は嫌いだ。退屈は繰り返しからやってくる。どうも自分に納得がいかないらしい。まるっきり他人になることは気違いになることと同じじゃないだろうか。わからない。それが役立たずの考えを止めるためのひとつのピリオドになる。もう何も言うことがないのなら黙ってやり過ごしていればいい。打ち寄せる波を見てる。次から次へ、波を見てる。頭の中じゃ永遠に夕暮れだ

グリューベライを聴きながら

世の中はだんだん狂ってきていると誰かがつぶやいているのを見た。世の中はだんだん狂ってきているのだろうか。ジョン・レノンがインタビューの中で「世界は狂人によって支配されている」と語るのを見た。世界は狂人によって支配されているのだろうか。僕は彼で、彼は君で、君は僕で、みんな同じことさ。それでも狂ったやつらは銃を撃つ。悲しいね。どっかにはいい人がいて、どこにでも嫌なやつがいる。馬が合わなかった人たちは、最後は僕のことを嫌っていたかもしれない。僕にはわからないことがあり、時折そいつがすべてを隠す。破り裂いた背景から、見たくもないものを見つけてしまう。あんなに怯えた暗がりに、慣れてしまった自分に気づく。その時微かに火花が散った。その一瞬を逃さなかった。僕は光に食らいついた。

 

都会の憧れはすっかり灰をかぶってしまった。その灰を一生懸命払い除け、あらわれた元の姿を新しいものと勘違いする人たち。高い金を稼ぎ、高い金を支払う人たち。自分たちを憐れみ、自分たちがもう変化できない生き物だという都合の良いルールを昔からあったかのように捏造する人たち。橋の下の腐った海では、奇妙な形の魚が泳ぐ。ビルの合間の墓場は明るすぎて、幽霊たちも顔を出さない。百合の花は、百合の花。

 

僕は色を探して家を出た。転がり込んだ黄色い部屋、そこにはピンクの絵があった。青い火だって燃えている。だからブルーに泣かないで。窓の向こうがどうであれ、今いるこの部屋が明るければそれでいい。僕たちはもっと自信をもって、よい。その方がうまくいく。